class="style1">68号 2016年8月発行

〈1面〉

ハンガリー式憲法の変え方 大内要三(日本ジャーナリスト会議会員)

ハンガリー国会議事堂の夜景


 ハンガリーの首都ブダペスト。ドナウ川の河畔に建つ国会議事堂はネオゴシック様式の壮麗な建物で、とりわけライトアップされた夜景は見事です。内部もまた豪華ですが、予約すれば英語の解説つきで見学も写真撮影も可能です。ただし衛兵が厳重に守っている
「聖なる王冠」の間だけは撮影禁止。紀元1000年というと日本では平安時代で『源氏物語』が書かれたころですが、イシュトバーン一世がローマ教皇からこの王冠を授与され、ハンガリー王国を建国したとされています。
 それから1000年余。2012年一月一日に施行されたハンガリー新憲法(正確には基本法)は、冒頭近くに「我々は、我々の聖イシュトバーン王が確固たる礎のもとにハンガリー国家を築き、一〇〇〇年前のキリスト教ヨーロッパの一員となしたことを誇りに思う」と書いています。確かにハンガリーはハンガリー人(マジャール人ともいう)キリスト教徒が人口の九割を占めるといわれますが、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教など諸宗教が共存し、諸民族がいかに仲良く暮らすかが課題となっている21世紀のヨーロッパで、わざわざ自らの民族・宗教を憲法で強調するのは、いかにも時代錯誤ではないでしょうか。

「多数決民主主義」は本来の民主主義ではない

 このような新憲法が成立したのは、日本とは違って国民投票なしに国会議席の3分の2超の議席を得れば容易に憲法改正ができ、そのため毎年のように憲法の部分改正が行われ、憲法の初心が失われるような新憲法ができても大規模な反対運動が起きない、という政治制度・風土からのことでしょう。
3分の2を征すれば何でもできる。「多数決民主主義」が本来の民主主義ではないことの実例を示しています。

ハンガリー憲法の変遷

 1949年、ソ連の影響のもと人民共和国憲法ができました。この憲法は社会主義政権の崩壊後も部分改正を繰り返して生き延び、形式的には2012年の新憲法により廃止されるまで現役でした。もちろん1989年、90年の改正は大規模で、名前も人民共和国憲法から共和国憲法に変わり、「複数政党制、議会民主制および社会的市場経済を実現する法治国家への平和的移行」までの暫定的な憲法として旧憲法が存続していたのですが。
 ハンガリーでは何を憲法で決め何を法律で決めるかの基準が日本国憲法とはだいぶ違っていて、祝日をいつにするかまで憲法で決めていますから、たびたび部分改正が必要になるのも分かります。ですから憲法と各条項の実施法を合わせて考えないと比較はできないのですが、オルバン政権のもと成立した新憲法には、民族・宗教の強調以外にもたくさんの問題がありますので、以下にハンガリー新憲法・実施法を併せた新体制について、ごく一部ですが、少し説明をします。
 立憲主義という言葉が日本では昨年の安保関連法成立前後から有名になりました。国が勝手なことをできないように民が縛るための決まりが憲法、ということですね。ところがハンガリー新憲法では国民は国家に貢献する義務を負い、国家に有益な活動参加を求められる、と規定しています。国と民の関係が逆転しているのです。
 国会議員の定員は386から199に減り、小選挙区比例代表制という日本に似たシステムは残しましたが、小選挙区による議席の割合が増えました。より多数派に有利な体制に変わったということです。
 ハンガリーには憲法裁判所があり、違憲の法律をチェックしてきたのですが、この憲法裁判所は存続したものの、予算・税・財政に関することは権限外とされました。
 予算編成にあたっては国会は予算評議会の事前同意を得ることが必要ですが、この評議会の人事は国会多数派が握っています。

44年ぶりのサッカー欧州リーグ出場で盛り上がるブダペスト市民

なぜこのような憲法が成立してしまったのでしょうか。 

 オルバン政権は矢継ぎ早に旧憲法の部分改正を繰り返すとともに、新憲法を準備しました。この過程でメディア統制を強め、情報通信局が報道内容をチェックし、政治広告を規制しました。また中央銀行総裁や憲法裁判所裁判官など国家の主要ポストを順次、与党支持者に交代させました。国会の新憲法準備委員会を野党はボイコットしました。
 新憲法案は2011年3月に国会に提出され、実質わずか9日間の審議で成立しました。新憲法施行のための膨大な諸実施法は、新憲法施行2日前に議事手続を改正して、3分の2超の議員の同意があれば審議抜きで採決ができるようにしました。これほどの荒技に対して、反対・抗議運動は数万の規模に終わりました。新憲法案国会提出より前に、全家庭に12項目の憲法改正に関するアンケートが送られていたのですが、わずか11%の回収率でした。国民は憲法の部分改正に慣れ、新憲法制定に鈍感になっていたのでしょうか。サッカー欧州リーグなみの注目度があれば良かったのですが。
 もちろん背景には経済危機と難民問題というヨーロッパ共通の大問題があり、ポーランドのシドウォ政権もハンガリーの後を追って権力集中的憲法をめざしているということです。日本にもかつて憲法改正には「ナチスの手口に学んだらどうか」と発言した政治家がいましたが、今度は「ハンガリーの手口に学んだらどうか」と言うでしょうか。
 ひるがえって日本の憲法状況を見るとき、議会多数派なら何でもできるという「多数決民主主義」ではなく、自由な徹底した議論の保障、そして議会内外の運動の連携こそが民主主義だという常識が確立されることが必要のように思います。

 大内要三さんのプロフィール
1947年千葉県生まれ。
日本ジャーナリスト会議会員、元朝日新聞社出版本部編集委員。練馬・文化の会共同代表、豊玉九条の会呼びかけ人。
著書:『日米安保は必要か? 安保条約の条文を読んで見えてきたこと』
(窓社、2011年)、『あたご事件 イージス艦・漁船衝突事件の全過程』
(本の泉社、2014年)ほか。

3面

戦争体験者の手記

戦争の語り部として ねりま九条の会 小岩 昌子

戦争のことを語り始めて20数年になります。
 近所の学校の先生に「うちの学校にきて昔の練馬の話をして下さい。」と言われて、お邪魔したのが最初です。それから練馬の学校をはじめ、神奈川、埼玉など三〇校ぐらいで子ども達に話をしました。そして、「私達も戦争のあった頃のことをよく知らないのです。聞かせて下さい。」という地域の人達
にも話を聞いてもらいました。
 「私は、風船爆弾を作っていました。風船爆弾は、人を殺す道具です。兵器とは人を殺す物です。」戦争中、何を作っていたかも分からなかった私が、「小学生でも中学生でも戦争になれば兵器作りに参加させられること。戦場にたつことになること」等を話しました。
 「かつての戦争だから知らなくていいんだ」ではなく、戦争を体験した人は語っていかなければならないと私は思っています。体験したことを、目や耳や身体全体で感じたことを語り伝えていくことが、大切なことだと思います。体験したことと、体験していないことではかなり違うのです。そして『戦争は反対だ』と言わなければいけないと思うのです。
 子ども達の感想文は、何千枚にもなりました。
 「小岩さんの『風船爆弾をつくっていた。殺人兵器を作っていたなんて知らなかったじゃ済まされない』という言葉が重く胸につきささリました。こういう戦争が起こらないように今日の話を忘れないようにしていきたいです」「風船
爆弾で、アメリカの人が殺されました。小岩さんは、私達くらいの時に殺人兵器作りに参加し『私も加害者だった』と聞き、どんなにつらいかと涙が出ました」「一五才から働くなんて…。私達は学校で、勉強し、遊んで家に帰っている。小岩さんの話を聞いて、戦争のない私達は、幸せだと思いました。ずっと戦争がないといいと思いました」こういう感想文がたくさんありました。

樺太からの引き上げ                     北町九条の会 中村 貞子

 私は1940年7月に樺太の大泊郡遠淵村で生まれました。敗戦時は五歳でした。
 ソ連は終戦直前の8月9日に参戦。ソ連兵は土足で各家庭に上がり込んできて、猟銃や腕時計など欲しい物を奪っていきました。猟銃は冬の長い樺太では必需品でした。ソ連兵は奪った腕時計を五つも六つも腕にはめていました。私は祖母の背中に隠れて見ていましたが、ほんとうに恐かったです。
 間もなく引き上げとなりました。男性は村を片付けるために残り、女性と子どもが先に引き上げることになりました。私の家族は、母と叔母と1歳になる叔母の子ども、祖母、私と3歳の弟の六人でした。大泊の港に着くと港はものすごい人でした。引き揚げ船は沖の方に停泊していました。奥地の方からどんどん大泊をめがけて人が集まって来るのに一向に列は進みません。その内に近く小船の出航の合図を聞いた祖母が、母たちに乗るように言い、その後で祖母が孫三人を連れて乗ろうとしたら、大きな兵士が「この船には婆さんみたいな年寄りは乗せない」と言うのです。祖母は「この船にはこの子たちの母親がふたり乗ったのでどうぞ乗せてください」と頼んだのですが、「乗せない」と言い張ります。すると祖母は「もう一遍行ってみろ!お前のような腰抜け兵隊がいたから日本は負けたんじゃないか。誰がこの住み慣れた樺太を後にして引きあげて行きたいものか。お前のような者は海に叩き込んでやる!」と大きな声で怒鳴ったのです。それを聞いた見送りの男たちが大勢「おう!その男を海に叩き込め!」といって近づいて来ました。その兵士は逃げ、私たちは無事に船に乗ることができました。
 引き揚げ船「小笠原丸」「泰東丸」「第二新興丸」は、8月22日の明け方に出港して、稚内に着いたのですが、港には小舟がたくさん接岸していて着岸できず、小樽に回りました。途中の留萌沖にはソ連の潜水艦がうようよしていました。三隻には女性と子どもたちしか乗っておらず、白旗を揚げているにもかかわらず、ソ連軍は攻撃してきたのです。三隻ともやられたのですが、かろうじて第二新興丸だけが、沈没寸前で留萌港に着いたのでした。亡くなった人は1700人でした。

4面

  

これは自衛隊の新エンブレムです!

 

集団的自衛権の行使が容認され、自衛隊に新しい任務が与えられたことを 記念して、新しいエンブレムを作ることになったようです。
日の丸と刀という、旧日本軍のイメージそのままのこのエンブレムを巡っ て、インターネット上で反対署名が行われました。
わずか1ヵ月で2万3000筆の署名が集まり、8月1日付けで中谷防衛大 臣に手渡されました。私たちも問題にした方がいいのではないでしょうか
ご意見をお寄せください。

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